衝動性について
思いつきはいいが行動が続かない。昔からの悪い癖。
結構物事が三日坊主で終わってしまうことが多い。
このブログを始めたのも衝動的なアイデアで初めて、だいぶ早い段階でモチベーションがトーンダウンしている。(とはいえ、書き始めたら夢中になってしまうのだが。)
今絶賛職探し中だが、いろいろ考えて仕事の方向性を決めたところまではかなりモチベーション高くやっていたが、今は転職活動をするのが若干めんどくさくも感じてきてしまっている。
無職の間の小銭稼ぎでウーバーイーツはやってもいいとのことだったので、最初の1週間ぐらいは頑張ったが、なんかこれも腰が重くなってきてしまっている。
小さいころからいろいろ思いついて、最初の行動力だけはどうやらあるようなのですぐものをそろえたりするのだが、結局続かないということが多い。
少し話はそれるが、このような衝動的に行動して物事が続かないことやその他の自分のよくないと思うところの特徴を何とかしたいと思ったことが以前あり、その時に調べた結果いわゆる「大人の発達障害」の特徴に自分が結構当てはまるということを知った。
ちょうどそのころ仕事もうまくいっておらず、結婚した直後で色々あり二人の関係が悪かったときでもあり、メンタルを壊して1か月間休職したときに色々調べて知ったことだ。
心療内科に通っていたので、ついでに発達障害のテストみたいなのを受けてみた。結果そういう特徴は少し見られるけれども、発達障害ではないという結果だった。
今考えてみればたしかに自分はそうではないと思えるのだけれども、当時はもう何もかもめちゃくちゃだったので、途方に暮れてしまったわけで。
話はそれたけれども、三日坊主的なことが多いことを発達障害的にいうと、ADHD(注意欠如・多動症)の「衝動性」という特徴になるそうだ。
なにか思いついたら動かずにはいられないとか、パッとした行動力だけはあるが、そのあとが続かないとか。
ある意味そういう一面は強い方なのかなと自分では思う。一方で、まあそれぐらいみんなよくあることと言ってしまえばそこまでなのだが。
今日で実家に帰ってきて3か月がたった。
最初の1か月間はメンタル面を立て直すのと、離婚を進めるので精いっぱいだった。
2か月目は恩師・友人・先輩などいろんな人と会うことができ、かなり心が上向きになれた。
3か月目の前半は、前に進もうという気持ちを持てていて、自分と向き合って少し夢を見ながらもポジティブに今後のことを考えられてきた。
3か月目の後半ぐらいから、離婚もできて、静岡の家の荷物の回収も終わり、いよいよ前に進まなければいけないというなんか現実が見えてきて、ここから動き始めることの大変さが見えてきて、夢心地ではいられないんだなということを突き付けられたような気分になってきて、少しスピードダウンしてしまっているという感じ。
最初の衝動で動けているうちはよかったが、ここにきて自分の悪い特性が出てきてしまっていて、停滞している気分で、すごく居心地が悪い気分。
進みたいけど進めない。進まないといけないけど進みたくない。そんな気持ちが同居しているような気分。
ついでに言うと考えすぎて行動できない、少し完璧主義的という自分のよくない点が出てきていしまっていて、なんか嫌な自分だなと思っている。
まあ「考えるより先に行動する」ことが一番の解決方法とわかってはいるんだけどね。
ちょっと今日は雨で暗い気持ち。
あえてせっかくだから楽しんでしまうというのもありなのかも。
そして書き始めて気づくが、書いていると頭が整理されるのでやはりものを書くことはいいなあと改めて実感。
ブログだけは頑張らない程度に続けようと思いました。
四星球 『交換日記倶楽部 feat.高橋久美子』について
四星球の『交換日記倶楽部 feat.高橋久美子』がとても素晴らしいので内容について感じたことをまとめたいと思って記事する。
この曲は四星球の7thアルバム「SWEAT 17 BLUES」に収録されている。
このアルバム自体が笑えて楽しく心打たれるので最高のアルバム。
四星球は個人的に大好きで、自分の目指したいものをすべて表しているようなバンドなので、後日改めてまとめて書いてみたい。
この曲は、曲というより四星球のボーカル北島康夫と、元チャットモンチーのドラムで現作家の高橋久美子さんの朗読?というか交換日記の語りあいなのだが、この歌詞というか日記の内容がとても文学的で、グッとくるものがあるのでぜひ紹介したい。
そのまま読んでも理解できない内容もあるので、自分なりに解釈しながら書いてみたい。
以下歌詞を区切りつつ、自分なりの解釈を書いていく。
11/18
底辺×高さを2で割れないから
私 永遠に四角形
私のことなんて私だけで十分
あなたのことなんてあなただけで十分
二等辺三角形に憧れたけど
今はもう 四角形でいく他ないの
枯れたれんげの指輪つけて
走れるにきまってる
今までで一番速く
だって私中学生だから
奇しくも、この記事を書いている日が11/18なので運命を感じてしまった。
最初の日記は高橋さんが、その次が康夫が読んでいる。以降は交互に。
全体を通して聴いてみると11/18~12/5までの日記は中学生時代、そのあとは卒業後もしくは大人になってから書いたものと思っていたが、ちょっと視点を変えて聴いてみるとまた違った風景が見えてくる。
年が出てくるのは最後の日記だけだが、僕はこれは全部大人になってからの日記なのではないかと思った。
まず初めに、11/18の内容だが、正直最初聴いたときは何を言っているのかよくわからなかった。でも大人になってから書いたものという視点で見てみると変わって見える
「底辺×高さを2で割れないから私 永遠に四角形
私のことなんて私だけで十分
あなたのことなんてあなただけで十分
二等辺三角形に憧れたけど
今はもう 四角形でいく他ないの」
しびれる文章。底辺x高さを2で割れないから私永遠に四角形は後の文から考えて、
自分の人生を人と分けていくこと、だれかと折り合いをつけて分かち合っていくことが私はできないから、私は私のままで行くしかない。という意味だと解釈した。
枯れたれんげの指輪つけて
走れるにきまってる
今までで一番速く
だって私中学生だから
レンゲソウは春の花でこの日記は11月。れんげは、泥沼の中でもきれいに咲くことから仏教的には仏を意味したり、清らかで美しいという意味を象徴したりするらしい。
枯れたれんげの指輪は、つまり中学生のようなきれいな青春時代の思い出ということを意味するのではないかなと思う。
つまり、昔のきれいな青春時代の思い出を身に着けて、今だって一番早く人生を走れる。だって私は“まだ心は”中学生だから。ということになるのかなと思った
11/19
円になって輪になってその真ん中で
人気者になりたくて誰よりもうるさく
一回でいいのに必死にしつこく
半径×半径×って2回言う僕
そのくせ3.14はかけない
丸くなるようなタマじゃねえからな
今週のジャンプで覚えたタマじゃねえって言い方早速拝借
誰よりも一番早く
だって僕中学生だから
康夫のパート。これはもしかしたら大人になってからではなく、中学生時代のものなのかなとも思った。「そのくせ3.14はかけない」というフレーズが個人的にとてもよい。
半径×半径だけだと、四角形である。つまり11/18と同じニュアンスでいうと角が立ってとがって、自分は自分として生きていく。そんなニュアンスに感じた。中学生らしい内容だ。
----------------――
11/22
手つかずの欲望に
夜露一滴こぼしてみたい
私どこまでも飛べる
名前入りの体操服で
大人はこういうの青春ていう
不自由の中の自由を。
自由の中の不自由は
羽をなくした鳥なんだってさ。
私いつまで中学生だろう
この内容も解釈が難しい。「手つかずの欲望に夜露一滴こぼしてみたい」が感受性がないからなのか理解が難しい。
「名前入りの体操服」が中学生を意味していることは分かる。
大人になってから書いた文として読んでみると、年齢的には大人になったけど、心は中学生のまま、青春を謳歌できる。不自由の中の自由にいるのだから。
と解釈した。
12/5
羽ばたきか まばたきか
風がめくる中学生なのに大学ノート
ページは変わるが飛んではいけない
どんどん雑になる文字よりも
やたら綺麗な1ページ目の方が恥ずかしい
自由の中の不自由、の中の自由、の中の…
えっ!?中野の体操服盗まれたって!?
知らないよ 飛んでいったんじゃない!?
僕らいつまで中学生だろう
後に出てくるが、ノートは人生の象徴だと思った。
だから、「ページは変わるが飛んではいけない」
飛んではいけないは、不自由を意味すること。
やたら綺麗な1ページ目の方が恥ずかしい 青春の人生の1ページ目くらいのことがキラキラしていて、夢のようなことを言っていたころが少し恥ずかしい。一方今はどんどん雑になっていく。余計恥ずかしく感じる。そんなことだろう。
中野の体操服は、鳥になったのだろう。自由の中の不自由から抜け出したんだろう。
4/23
「君たちは人生のまだ3ページ目くらいなんだ」って
卒業式でおじさんが言ってたっけな
確かにそれは本当だった
ノートの残りはもう穴埋め問題じゃない
真っ白すぎて汚すのが怖いよ
どんどん綺麗になっていく思い出
どんどん雑になっていく今日
こないだ中野が子どもの体操服買ってたよ
私達いつのまに……
「ノートの残りはもう穴埋め問題じゃない 真っ白すぎて汚すのが怖いよ」ここからの表現がすごく好き。もう卒業して大人になってからの話なんだなというのがここからわかる。
大人になると穴埋め問題のように答えがわかるようなことではなく、人生の4ページ目以降は自分で考えて自分で決めて書いていかなければならない。だから「汚すのが怖いよ」になる。
「どんどん綺麗になっていく思い出 どんどん雑になっていく今日」
このフレーズも好きだ。青春の日々はどんどんきれいに見えてくる。それに比べて今日はどんどん雑になっていく。まさに今の自分と重なって、グッと来た。中野は子供の体操服を買う。中野は気が付けば大人になっている。年齢ばかり自分たちは大人になってる。いつのまにか。
5/12
人生の3ページ目が青春の1ページか
「青春の1ページ」ではなく「青春は1ページ」の間違いかも
めくることに臆病で1枚の中に僕らびっしりだった
寄せ書きのように 野球部の弁当箱の中のように
中野の子どものお弁当箱には
きっときれいな三角形のおにぎり
みんな底辺×高さの割り方を覚え
上手に握れるようになっていくんだね
僕たち何年生だろう
康夫パート。
「青春の1ページ」ではなく「青春は1ページ」の間違いかも めくることに臆病で1枚の中に僕らびっしりだった というフレーズ。ここも好きだ。
青春の1ページから次のページへ行くことを恐れて、その中にずっといようとする。ノートを埋めるようにびっしりと。
中野のお弁当の三角形のおにぎり。これは周りとうまく折り合いをつけて四角形じゃなく、大人になれている中野を象徴している。「僕たち何年生だろう」僕たちは大人になれているのだろうか。という意味なんだろうと解釈した。
君は今も人気者で
3.14わざと掛けずにいるんでしょう?
私はまだ4ページ目あたりをうろうろしてる
4ページ目あたりをうろうろしているということ、大人になり切れていなということなんだろう
枯れたレンゲの指輪はまだ持ってる?
失くしても大丈夫、ほらまたレンゲの季節
過ぎ去ったきれいな青春の思い出はまだ持っているかい?もしなくしてしまっても大丈夫。また春が来て、きれいな青春の思い出を今からでも作れる。
という意味だと思った。
君は今もジャンプ読んでる?
私はまだ私の続きを書いている
君はまだ中学生の心を忘れていない?私はあのころからの続きにいるよということ。
“1学期”も“2学期”もなくもうずっと
胸の“打楽器”鳴り響かせて春休みを生きている
そんなオヤジギャグ言うようになったけど中学生
春休み 新学期・卒業から新生活(大人になること)の間の時間を今も心を鳴らして生きている。まだまだ中学生だ。ということだろう。
2
018.12.20(木)
私は中学23年生
だけど
今日の
1年生
卒業できないことをここに証します
以下、同文です
ここが最高だと思った。中学23年生というフレーズがすごく好き。
まだ中学生の気持ちを持ったまま、でも今日という日の1年生として新しい青春のスタートを今からでも切れる。青春時代はこれからもずっと続けていくことができる。
「卒業できないことをここに証します」ということだ。
中学23年生は36歳。世間では大人になっている。青春時代はキラキラしてもう終わったものと見える。でも今でも本当は中学生の心をもって、青春を続けていきたいと思っている。いつまでも中学生の心で生き続けたい。そんな思いを感じた。
僕も29歳。世間的に見たらアラサーで大人といわれる歳になってきているのだろう。
でも正直大人になった気がしないし、底辺×高さを2で割れないこともよくある。
憧れの女性と会ってその人と話すだけでうれしくなって調子に乗ってしまうし、楽しいことに夢中になって時間を忘れてしまうし、中学生のころから何も変わっていない。
大人になっているようで、まだまだ中学生。青春は終わったものではない。今日の1年生としてまだまだ楽しんでいける。
そんなことを思った。
深く聴けば聴くほど、元気がでる。
素敵な1曲。
僕は中学17年生として、これからの青春時代を謳歌しようと思います。
漫画『喰う寝るふたり住むふたり』について
『喰う寝るふたり住むふたり』という漫画をご存じだろうか。
日暮きのこ先生の漫画で、2012年4月~2014年12月まで月刊コミックゼノンで連載されていた(らしい)全5巻の漫画。
僕は大学時代にこの漫画をふと本屋で見かけて気になって読んでハマってしまい、何十回と読み返している。(一回ブックオフで売ってしまったので今は手元にはないが)
内容は高校時代から付き合っていて、10年同棲している29歳同士のカップルのラブコメディ。
面白いのは、一つのエピソードについて、彼女側の視点の物語と、彼氏側の視点の物語が交互に展開されている点。
「この時こういう行動をしたのは、こういうことがあったからなのか!」と後からわかったりして、その内容がなかなかほっこりするので個人的にとてもおススメの漫画だ。
その続編『喰う寝るふたり住むふたり続』が今年4月から連載開始され、その単行本1巻が出ていたので読んでみたのでその感想について少し書いてみたい。少しネタバレ的になるかもしれない。
帯に書いてあったのでこれは大丈夫だと思うのだが、前作で結果二人は10年の同棲の末結婚をする。
続編は結婚後5年たった二人の話だ。
いくつかテーマはあったが1巻の主なテーマは「不妊治療」
周りが子供ができたり、結婚すれば子供を作ってすんなり作れて、子育てをするのが普通と思われている世間と、自分たちが子供がなかなかできず「負け組」なんじゃないかと葛藤する。子供ができれば、自分は変われるかもしれない。そんな葛藤をする二人の関係が主に描かれている。
ネタバレだが、結果二人は子供は「諦める」という選択をする。それは前作でも出てきた「うちらはうちらだから」という考えのもと。というのが1巻の大まかな話。
これを読んで僕はいろんな思いがめぐってかなりグッと来てしまった。
元妻との結婚生活は3年だったが、子供はいなかった。
僕は、本当は子供が欲しかった。元妻も本当は欲しかったのだろう。
だが、いろんなことがあった上で、自分が未熟だったというのもあるのだろうが激昂する元妻からこういわれたことがある。
「お前みたいなクズに子供が育てられるわけがない。子供がお前みたいになったらかわいそう。お前の遺伝子を残したくないから子供は作らない。」
この言葉があまりにショックだったので、なぜこのようなことを言われたのか、その後どういうことになったのかは覚えていない。
忘れようと思っていたけど、あまりに衝撃的なことだったのでたぶんこの先も忘れるのは難しいかもしれない。
僕は子供は結構好きだ。今でも兄が姪っ子甥っ子を連れて遊びに来ると一緒に遊んでるし、自分の子供もいずれ欲しいなと思っている。
正直自分が親になれるかという具体的なイメージはできないし、立派な親になれる自信もないが、それでも自分の子供が欲しい。
でも前の結婚生活ではそれはかなわなかった。「諦めた」。
もちろん周りの友人たちは結婚して子供ができて育ててと普通にしている人たちが結構いる。そういう人たちをSNSでみたりすると、やはり羨ましい気持ちがすごくあった。
自分が負け組な気もしていた。羨ましさが嫉妬に変わってしまうこともあった。
最後はそれこそ「うちらはうちら」という気持ちで折り合いをつけた。
離婚が成立して1か月ちょっとが経ち、またこれからのことを考え、まだ先のことだけどやっぱり結婚して子供が欲しいなと改めて思った。
でも、元妻から言われた言葉を思い出してしまった。
自分は子供を育てられるほどの人間なのか。そもそも遺伝子残したくないと言われるほど人間としてクズなのか。なんでそんなこと言われてしまったのか。離婚したからって自分の性格は変わったのか。本質的には変わってないのじゃないか。
そんなことを考えて非常にナーバスな気持ちになってしまった。
仕事をするために今までの人生を振り返って、それなりに自分の強みとか自分のことを考えて自分に自信を持っていたけれど、やっぱりそんなできた人間ではないと思えて来てしまっている。
当時はある意味洗脳状態だったから、言われたことすべてが本当のことじゃない、今はそれが解けていると思っていたのだけれども。3年間受け続けた傷はそんなに早く治らないみたいだ。
近いうちに、結婚生活のことをしっかり振り返った方がいいかもしれない。
何が良くて何が悪かったのか。自分が変えていくべきことは何か。
少し見えていることはあるけど、ダメだった部分は直視できていないのでしんどいけどちゃんと考えた方がよいと思っている。
とはいえ、漫画は面白いのでぜひ読んでいただきたい。
余談だが今日は大学のころの憧れの女性先輩とこの後飲みに行くことになっているので、マイナスなことは書いて頭クリアにして楽しみたいと思い、こんな記事を書きました。
それでは楽しんでくるぞ!
やりたいことについて
自分がやりたいことは何かとパッと答えられる人はどれくらいいるのだろうか。
絶賛求職中の身なわけですが、自分がやりたいことを考え続けて2か月ぐらいたってしまった。
世の中の人はみんな自分のやりたいことがわかっていて、それを仕事にできているのだろうか。
何かヒントになればよいと思って本を数冊読んだ。
『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』著:八木 仁平
『自分の才能の見つけ方』著:本田 健
『「適職」に出会う5つのルール』著:櫻井 秀勲
『あなたが気づいていない本当の強みがわかる適職の結論』著:宇都宮 隆二
すべて読んでみて、共通して言えることはまとめると以下のようなことなのかなと考えている。
・仕事は「人生の目的」を達成するための『手段』である
・まずは、自分の「人生の目的・軸」を決めること。
・「人生の目的」とは、自分が大事にしたい価値観、周りに広げていきたいと思う価値観
・やりたいことは、自分の好きなことの近くにある。
・好きなことでも、自分が「得意なやり方」で仕事にしないと、適職にはならない
・過去の経験に、自分の「価値観」・「得意なやり方」・「好きなこと」がある
人生の目的とか言われると、なかなかそこまでの考えを持ってきたことがなかったので難しいというのが率直な感想。
この内容をもとに色々考えてみたが、これがまた堂々巡りというかなかなかまとまらない。
「これだ!」というものに巡り合ったと思いきや、現実的なことを考えて「やっぱり違うな…」と思うことの繰り返しでだいぶ困っている。
考えすぎるのが面倒になってきたので、暫定やりたいことをとりあえずまとめた。
記録として書き残しておこうと思う。
人生の目的:周りの人を元気にして、ゆとりのある生活を与えたい
仕事の目的:働く人がのびのび働き、ゆとりある生活を送れる環境を作りたい
やりたいこと:総務・人事などのバックオフィス業務で、最高の働きやすい環境を作りたい
仕事もやめて、29歳全く新しい道に進むには最後のチャンスかなとも思ったので、今まで経験も何もないけど面白いことに挑戦したいという気持ちもあったが、
それよりも早く働きたいし、バックオフィス業務はそこそこやってきたから経験もあるし、できることを仕事にした方がいいなと思ったので、現時点ではこう思っている。
今までの人生で、野球部のマネージャーとか主務とかトップに立つというよりはサブとしてサポートする役回りが多かったし、そういうプレイヤーになるよりはプレイヤーがやりやすい環境を作るってことに今までこだわっていた部分もあったなと思うから、仕事の目的としては間違っていないかなと思っている。
あとは、今回の色々な経験での中で僕は2回メンタルを壊したのだが、そういうメンタルを壊してしまうような人を自分の周りでは一人も見たくないし、助けてあげたいという気持ちが強くあるので、今のところ人事の経験はないけどそれも経験して、自分が働く職場ではそういう思いになる人を絶対に生み出さないようにしたいと思っている。
趣味的に心理学の勉強をして、心理カウンセラー的な資格やメンタルトレーナーの資格を取ろうと思っている。
まだ全部思っているだけなので抽象的で理想論的なのかもしれないけど、これなら自分は熱意もってできるなと感じている。
もちろんバックオフィスの実務経験はあるから、基本的には地味で形式ばった仕事ばかりなのもわかっているけど、将来的にそういうことに取り組めたらなと思っている。
まあ今後考えが変わるかもしれないけど、その時はその時考えようと思う。
やりたいことをやるというのは、とても難しいのですね。
自分のやりたいことができているという人がいたら、ぜひ話を聞いてみたい。
どういう考え方でそこに行きついたのか、どういう思いを持っているのか、非常に興味がある。
とりあえず、職務経歴書作って簿記の勉強しつつお仕事探し頑張ります。
書くことについて
自分でもびっくりしていることがある。
このブログを書いていて、自然とスラスラ言葉が出てくることだ。
自分が何かを書くことにこんなに熱中できるとは知らなかった。29歳にして新たな発見だ。
このブログを始めてまだ初日だけれども、書きたいと思うテーマが50個以上浮かんでいる。驚き。
思い返せば、何かを書く行為は昔から結構好きだったなと思った。
中高の試験や受験の時は、テキストに書いてある重要なことだったりを自作ノートにまとめるということをひたすらしてきた。効率はめちゃくちゃ悪かったが、当時は結構夢中になって書いていたものだ。
この度実家に帰ってきて自室の片づけをしているとき、浪人時代も合わせたら50冊ぐらいのノートが出てきてびっくりした。すごくきれいに色分けとかもしていて、我ながらよくやるなと思った。
昔から一人で思い悩むことが多く(今もそうなのだが)、そういう鬱屈した気持ちを収めるためにメモ帳にいろいろ書きなぐったりもしていた。片づけをしているときそのメモ帳が何冊も出てきてだいぶ恥ずかしい気分にもなった。
社会人になってからもメモ帳はよく使っている。大体整理がついていないようなことが殴り書きされているので、見返しても何も役に立たなかったりするのだが。
こう振り返ってみると書くことは自分にとって重要な行為になっているということがわかってきた。
書く自体が、自分の頭の中のモヤモヤを吐き出すというストレス発散にもなる。
文字にしてみることで、自分がどう思っているかとかをラベリングできて思考が整理されるという面もあると思う。
「メモは見返すためにある」とよく言うが、私はあまり見返すということを意識していない。
意識すると自由に書けなくなる。「書く」という行為自体が目的なので、見返すことはそれほど自分にとって重要なことではないんだなと、今このことを書きながら思った。
ちなみにブログはきれいな文字で残るので、考えてることが見返せていいなと思ってる。
書くことが好きということが転じて、毎日日記を書くようにもなった。
できるだけ毎日、書けない日や期間もあったけどなんだかんだ3年ぐらい続いている。
ほんとに大したことも書いてないし、だれに見せるわけでもないので好き勝手書けて結構楽しい。
書くためには文房具が必要で、お気に入りのノートとペンを探しているうちに文房具も好きになった。
今は普段のよしなしごとはロールバーンのLサイズメモに、日記はMDノートに、ペンはSARASAのマルチタイプのものを使っている。ステッカーを貼ったりして自分オリジナルの文房具を作って、これまた楽しい。
「書く」という行為から、いろいろ広がっているなといま改めて実感している。
特に今は一人でいる時間が多く、いろいろ思いを巡らすことも多く、でも誰かと話すわけでもないので、その対象がこうしたブログやノートへ向かっていく。
そうして書くことで頭が整理されて、自分の考えとしてまとまっていく。
モヤモヤが吐き出されて頭がクリアになっていく。
その感覚が好きなので、書くことが好きなんだなと思った。
以前、「メモの魔力」という本を読み、ほかにもノート術・メモ術みたいな本を数冊読んだことがあり、いろいろなメモの使い方・書き方などが書いてあって参考にしてみたが、結果その人に合ったメモの使い方があるので、そんな型にはめてやらなくてもいんじゃないかなと思うようになった。
ただストレス発散法だったり思考の整理として「書く」行為はとてもおススメなので、なんかモヤモヤとした感情になったときは、とりあえず頭に浮かんでいることをそのまま書く程度でいいからやってみることをおススメしたい。
個人的には書くことは今後もライフワークにしていきたいなと思うので、このブログも続けられるだけ続けたい。
あまり人に見られることを意識していないので、まとまりのない文章だったり恥ずかしい内容だったりするけれど、さらっと読んでもらえるだけで私の承認欲求が満たされるので今後ともお付き合いください。
音楽について
音楽は自分の人生にとってなくてはならないものだ。
NO MUSIC, NO LIFE
タワーレコードみたいなことを言ってしまったが、まさしくそのとおり。
音楽といってもいろんなジャンルがあるわけだが、結構分け隔てなく聴く。
特に好きなのはパンクロックだけど、ヒップホップやクラブ・ハウスミュージックみたいなのも好き。シティポップな感じも好きだし、聴きたいときの気分に合わせて音楽を楽しんでいる。
とはいえ、本格的に聴くようになったのは20歳ごろからなのでそこまで詳しくはないので、あれこれ語るにはまだまだ恥ずかしい感じはある。
でもそれなりに熱意はあるので、ちょっと書いてみようと思った。
そもそもいつから音楽が好きになったのかと考えたときに、大きな転機になったのは大学時代の一番の友人の影響だと思う。
彼はサブカルチャーに結構詳しくて、大学時代は彼の家に入り浸っていろんな音楽や漫画、アニメなどを教えてもらった。彼がいいと言ったバンドは全部聴いて、大概好きになって、自分でも好きなバンドを知ってとどんどん自分の音楽の幅を広げていった。
そして大学3年になったとき、彼から「バンドやろうぜ」と誘われてそのまま軽音サークルに入った。
そこから初めてドラムをたたくことになり、当時は準硬式野球部にも入っていたのでそれはそれで大変だったのだが、そのサークルで今まで聴いたことないジャンルの音楽をたくさん聴いたり教えてもらって、さらに音楽の幅が広がった。
彼と出会わなかったら、自分の人生だいぶ変わっていただろうなと思う。
元妻と付き合うきっかけも、好きなバンドが一緒(彼から教えてもらったバンド)だったので。
でも結果音楽の幅が広がって、その音楽にたくさん助けられたこともあるので本当にいい出会いだったと思う。
思えば大学に入る前から、音楽は好きだった。
小学生ぐらいの時、兄がやっていた「スーパーロボット大戦α」を横で見ていて、戦闘シーンの音楽がかっこいいことからロボットアニメの主題歌が好きになった。
兄がやっていた音ゲー「パカパカパッション」が面白く、その音楽をよく聴いていた。
古いゲームだったので周りの人は全然知らなかったけど。
中学1年生の時に、ふざけて氣志團のワンナイトカーニバルを踊ったら結構ウケて、それがきっかけで気志團のヤンク・ロックも聴くようになった。思えばパンクロック好きの目覚めはここだったのかもしれない。
ミュージックステーションは結構毎週見てた。懐メロ特集などが好きで、古い曲を聴いてiPodに入れて、高校の部活の友達と聞いて「なんでこの曲知ってるの!?」みたいな感じで盛り上がったりもした。
野球部だったが、野球の応援歌も好きでブラバン甲子園のアルバムを借りたりしていた。
(SEE OFFがただかっこいいと思っていたが、それがBRAHMANの曲と知って興奮したのはその数年後の話である。)
高校時代にはK-POPにもハマった。KARAと少女時代を中心に、韓国の音楽番組を毎週チェックして、当時のガールズグループの曲はほぼすべて知ってるぐらいに熱中していた。
振り返ってみるとどんな時も音楽がそばにあるような、そんな生き方をしてきたと思う。
一応、恥ずかしながら音楽を聴くときのポリシー的なものが一つある。
それは「好きな、気に入った音楽を味わって聴く」こと
流行っているからという理由だけではあまり聴かない。
流行っている曲を全く聞かないわけじゃない。とりあえず一回は聞いてみるけれど、自分が好きじゃなければそれ以降は好んで聴かない。別にそれで話題に入れなくてもいいと思っている。そして大体流行っている曲は好きじゃない曲のことが多い。
音楽にはいろんなメッセージと感じ方があるので、否定するつもりはないのだけれども、流行っている曲をとりあえず聞くみたいな、考えなしで音楽を受けるスタンスが僕は好きじゃない。
音楽は聴く「時」「場所」「状況」によって感じ方が変わるし、いろんな楽しみ方がある素晴らしいものだと思っているので、それが消費されるような商業的な音楽の聴き方が好きではない。
今、自分のアップルミュージックのお気に入りプレイリストにある約1000曲は、全曲への思い入れがあるので、たぶん曲への思いをそれぞれ10分以上は語れると思う。
それぐらい、音楽は味わって聴きたい。
特に思い入れがある曲が何曲もあるので、それをこのブログに書いていきたいなとも思っている。
音楽への思いは語り切れないのだけれども、とにかく伝えたいのは今後の人生もずっと音楽は趣味として聴き続けていきたいということです。
あとまだまだ自分の音楽の幅を広げていきたいとも思っているので、よい音楽があれば教えてほしいです。
半径5mについて
このブログのタイトルを『半径5mの中の話』とした。
この言葉は、僕が好きなバンド『ガガガSP』のボーカル、コザック前田がライブのMC中よく言う言葉から引用した。
『自分の半径5mの中で、面白いことを見つけて、楽しく生きていければいいんじゃないか』
初めてYoutubeか何かのライブ映像でこの話を聞いたときに、ハッとしたのを覚えている。
自分が生きる生活の半径5mなんて、本当に大した大きさではない。でもその半径5m以内の生活、関わる人たちと楽しく暮らせればそれだけで幸せなんじゃないか。
そういうことだと僕は解釈しているが、その時は目からうろこな考え方と感じた。
とても好きな言葉だ。
今年の4月に初めてガガガSPのライブに行った。
何年も前から一番好きなバンドだったが、行く勇気とタイミングがなくてなかなかいけなかったので初めてになってしまったが、この日のライブは人生史上一番ぐっと来たライブになったと思う。
このライブの話は長くなりそうなのでまた別の機会に書こうと思う。
そのライブの際にもMCで『半径5m』の話があり、改めて意識するようになった
そしてこの8月に実家に戻ってきて、改めてそれを痛感した。
自分の実の家族、友人、お世話になった人、生活環境。これが何よりも大切だということ。静岡での生活は実質半径5mの外のことだったと思った。
自分の半径5m以外の出来事に気をつかったってしょうがない。だって自分の影響力はそこまで届かないし、自分の力ではどうしようもないことだから。それなら、半径5m以内の生活を楽しくする、それが生きていく目的でもいいんじゃないか。
なんかいろいろ考えすぎたけどそれぐらいでいいんじゃないかと思うようになった。
なので、僕の人生の目的というか、テーマは「自分の半径5m以内を楽しく幸せにすること」と決めた。
このブログでは基本的には僕の超個人的な考えとかを書くつもりなので、ちょうどいいタイトルなんじゃないかなと思い、タイトルにした。
だいぶダサくて恥ずかしいなと思うけれども、自分がだいぶダサくて恥ずかしい人間なのでしょうがない。自分は変えられないのでこのままやっていきます。
しかし半径5mというのは、実際は小さいようでそこそこ大きい。
僕が考える半径5mの中は家族や友人、お世話になった人、大切にしたい人たちと生活環境をイメージしているのだけど、それだと結構スペースが余るような感じがある。
まだまだ自分の輪を広げる余地あり。精進します。