『社会人大学 人見知り学部 卒業見込み』について

僕はオードリーが好きだ。

 

中学か高校生のころから、ずっとオードリーのオールナイトニッポンを聴いている生粋のリトルトゥース(オードリーのオールナイトニッポンのリスナーのこと)だ。

 

結婚生活中はなかなかしっかりラジオを聴けるときがなかったのでしばらく聴けておらず、武道館ライブもいけなかったのだが。

 

そのオードリーの若林のエッセイ『社会人大学 人見知り学部 卒業見込み』を最近改めて読んだ。

7年前ぐらいに出た本で、当時からお守りのようにずっと持っている。

内容は2009年のM1以降、爆裂に売れて今まで社会とのかかわりのなかった当時30歳前後の若林が社会人1年生として社会の何たるかを学び苦悩してく姿が描かれているエッセイだ。

 

 

大学生ぐらいの時に最初に読んだときと、29歳になって仕事もやめてニートになり社会から切り離された状況で過ごしている今とでは、読了感が全く違うことに驚いた。

 

まず気が付いたのは、このブログの書き方がなんとなく本書のエッセイの書き方似ているということだ。無意識のうちに、「若林みたいなエッセイを書いてみたいなー」という思いがあったということにハッとさせられた。少し恥ずかしい。そこまで面白く書けている感じもないのでより恥ずかしい。

 

それとなんでこんなにもこの本に、オードリーの若林正恭に惹かれているのだろうかということについて。それは彼の自意識過剰さと、その自意識過剰さに気づいてなんとか社会に合わせていくように角が取れていく考え方がありありと書かれており、それにとても共感したからだと思った。

 

僕はこんなブログを書こうとするぐらいには、自分にあまりにも意識が向いていて自意識過剰で、中学2年生から感覚の変わらない中二病だ。

 

本に書かれていることは、まあ人が違うから全部が全部共感できるわけではないが、かなり多くの部分に共感できた。彼のその自意識との折り合いのつけ方が、とても苦しみながら足掻くようであり、リアルで僕の思いを受け入れてくれるような感覚があり、自分が見つけられていなかった道を示してくれているようでもあり、グッと引き込まれた。

 

そして29歳になった今、この本を読んでなぜか涙が出てきてしまった。

苦しみ足掻き、なんとか社会に食らいつく姿が、少し自分と重なったのか。なぜなのかはわからない。特に「人間関係不得意」の伝説的はがき職人ツチヤタカユキの話は、読みながらドトールで鼻をズズッとすするぐらいに涙が出てきた。ほんとになぜなのかよくわからない。色々考えすぎている僕に刺さりすぎてしまったのかもしれない。

 

読んでいて刺さる言葉はたくさんあったが、そのうち特に今の僕に刺さった言葉をいくつか記載しておこう。

 

「ネガティブの穴の底に答えがあると思ってたんだろうけど、20年間調査した結果、それただの穴だよ。地上に出て没頭しなさい。ネガティブをつぶすのはポジティブではない、没頭だ。」

 

「性格というのは形状記憶合金のようなものだ。簡単に変えられるものではない。」

 

「感じ方を変えなくていいんだよ。隠蔽でいいんだよ。隠蔽や捏造の高さを『大人』というのではないか」

 

他にも、面白い内容がたくさん書かれているので、ネクラな人間ほど読むことをお勧めしたい。

今回、いろいろと悩んでいたり考えていたことの道筋が少し見えたような気がした。

本当に読んでよかった。

 

『社会人大学 人見知り学部 卒業見込み』は僕にとってバイブルだ。

これからも大切に、生きていてつまづいたり、逆に調子乗ってしまっているときに読み返していこうと思う。

 

 

若林のエッセイで続編の『ナナメの夕暮れ』という本が先日文庫版で出版された。

通常版は何年か前に出版されて当時買ったのだが、読むような余裕がなく色々な状況が重なり読むことなく古本屋に売ってしまったので手元になかったため、文庫版を改めて購入した。

 

今は余裕が有り余るくらいにあるので、さっそく読んでみようと思う。

 

祖母について

2021年12月12日 22時43分

 

祖母が亡くなった。享年92歳。

亡くなったとき、運よく立ち会えた。苦しむことなく旅立てたようだった。

 

僕にとっては生きていた最後の祖父母だった。

 

祖母にはもう3年ぐらい会えていなかった。

老人ホームに入っており、毎年祖母の誕生日の1月2日に家族みんなで会いに行くというのが毎年の恒例行事で、結婚した年に行ったっきり会えていなかった。

 

帰ってきてから家族の大切さを改めて知ったわけだが、今回は本当に帰ってきてよかったと思った。会うことなく、葬式にも出れずとなるところだったわけだから。

葬式はいろいろな都合で来週行われることになっている。

 

                                                                  

祖母とは高校生の時に一緒に暮らしていた。

食卓の僕の席の前が祖母の席だった。部活があったりで一緒に食事をする機会は少なかったのだけれども。

 

もう少し、おばあちゃん孝行しておけばよかったなと、今になって思う。

一緒に住んでいた当時から、祖母はボケが少し進んでいて結構生活が大変な時期でもあった。僕が高校を卒業するころに施設に入ることになるのだが、その間結構母と祖母の間に確執のようなものがあったようである。

 

父は人の心がよくわかっていない人だし、自分の母ということもあってなのかあまり関与しなかった。兄二人はもう自立していたし、家にいることが少なかったから話し相手になれなかった。なので母も色々なストレスが溜まっていたのだろう。僕に祖母の愚痴のようなことをよく話していた。

その話を聞いているうちに、正直に言うと当時祖母のことが鬱陶しいと思ってしまっていた。顔を合わすことがあっても、会話も適当に受け流すような、そんな態度をとってしまっていた。

 

小さい頃は祖父と一緒にいろんなところへ連れて行ってもらった記憶もある。たくさんいる孫の下から2番目だったので、結構かわいがってもらったとも思う。

 

その恩をしっかり理解することなく、伝えて返すことなく、祖母は亡くなってしまった。

それをとても後悔している。

 

伝えられる、できる感謝と恩返しは、その相手が生きている間に伝えなければいけないと強く感じた。

 

 

一方で、自分が薄情な人間だなと思ってしまう部分もある。

不思議と祖母が亡くなったのを目の当たりにしても、それほど悲しい気持ちにもならず涙も出なかった。

しばらく会えていなかったし、ある程度覚悟はあったというのもあるのだろう。

でもなんか人の死を目の前にしてもあまり悲しい気持ちにならない自分が、とても人の心がないよう感じてしまう。

家族もそれほど暗い雰囲気でもなく、もう今日には今まで通りの雰囲気の戻りつつある。

父も淡々と手続きを進めている。よくできるなと思う。本当に人の心がないのか、覚悟があったからか、長男だからとしっかりしているからか。これが大人になるということなのか。よくわからないけれど。

 

僕は基本的には時間が有り余っている人間なのだが、今週に限っては友人たちと飲みに行く予定が詰まっていたので、正直その予定がどうなるだろうということを考えてしまった。

結果、葬儀は来週になったので概ね予定通りで大丈夫だったのだが、1件今一番会いたい人と会う予定の日の前日に亡くなったので、その予定が飛んでしまった。

 

それに関してはおばあちゃんもうちょっと頑張ってくれたらよかったのになんて思ってしまった。ごめんね。

また葬儀の時になったら気持ちも変わるのかなと思う。

 

 

そんなことをここ数日考えていて、なんか申し訳ないような気分で過ごしていたけれど、

僕を助けてくれた先輩や、学校の恩師や、こないだあった人が口をそろえて同じことを言っていたことを思い出した。

 

「親や、助けてくれた人への一番の恩返しは、元気になって働いて、今まで通りの生活ができるようになることだよ」

 

あまり過去に囚われて、ああしておけばよかったとか、亡くなったのに楽しんだりして申し訳ないとか考えてもしょうがないと思った。

僕がやるべき恩返しは元気でいること、前に進むこと、今まで通りの生活を取り戻すことだと思った。

 

今日、祖母にその旨を報告して、僕は一日も早く元気に今まで通り働き健やかに生活できるようにしていこうと思う。

そして本当に誰がいつ死ぬかわからないから、伝えたいことは多少恥ずかしかったり、ダサかったり、嫌がられたとしても伝えられるうちに伝えようと思う。

 

そんなわけで早速今日は前の会社の同期が久しぶりに全員集まれるので飲みに行く。

週末には大学の同期の忘年会があるのでしっかり参加させてもらう。

 

キャンセルになってしまった、今一番会いたい人をもう一度誘ってみる。

 

都合いいかもしれないけど、それで僕は元気になるので僕なりの恩返しと思って、これからしっかり生きていこうと思う。

自分のキャリアについて① キャリアプログラム受けました編

ここ最近記事更新を怠っていた。別に書かなきゃいけないわけじゃないのだけれども。前回更新から色々人に会ったりして考えることが多かったので書いてまとめてみたい。

 

まず、仕事について。このテーマについては今後増えそうなのでナンバリングしておく。

 

先日、大学の部活の先輩の紹介で、キャリアについて考えるセミナーというかキャリアプログラムというか、個人面談みたいなのを受けてきた。

その大学の先輩は、ある保険会社のバリバリの営業マン。大学の3つ上の先輩なので部活をやっている当時はそれほど絡みがなかったが、部活以外のところでなぜか可愛がってもらって自転車もらったり、卒業後もよく会って飲んだりしている。

その際保険の勧誘を受けて流されるまま加入して、結婚後元妻に「縁を切れ」といわれてやめてそれ以来会っていなかったのだが。

まあその時に保険の勧誘ってこういう感じなんだなというか、人の裏が見えてそれはそれで勉強になったのだけれども。

 

先週、その先輩が飲みに誘ってくれたので、久々に会った。一応事情を話して金が一切ないということで保険に再加入という話はなかったが、その人のつながりでキャリアについて考えるプログラムがあるから受けてみないかという話をいただいた。

単純に今仕事について悩んでいるだろうということで紹介してくれた。

とりあえず少し疑うのはやめにしておこうと思った。

 

そしてそのキャリアプログラム受けてきたわけだが、そのプログラムの話し相手(?)は、先輩が勤めている保険会社の支社長をしている方。第一印象ですぐわかった。この人はエネルギーがハンパなく営業職としてはめちゃめちゃすごい人だと(語彙力なさ過ぎてはずかしい)。僕の勝手なイメージ通り、肌が浅黒い人でした。悪い人ではないです。

 

先輩の計らいで今の僕の状況については理解してくれている上で話をしてくれた。

というか半分ぐらいは雑談という感じで進んだわけだが。

 

以前にここでも書いた、自分なりの今の仕事に対する考えを話したりした。

向こうからも色々話をしていただいた。

 

思考の整理のために、箇条書きでその時印象的だったことと感じたことをまとめておこうと思う。

・仕事は「人生でやりたいこと」を叶えるための「ツール」だ。

 その人は、人生でやりたいことが「長男なので親に月20万の仕送りを送りたい」「子供2人を海外の大学に行かせたい」というやりたいことがあったから、やったらやった分稼げる今の会社に入社したとのこと。

 

・「今、めちゃめちゃ自己肯定感低いよね」

 普通に話をしているつもりだったが、話の序盤で突然言われた。自分ではそう考えていなかったので、かなりショックを受けた。これについては別にまとめたいと思う。

 

・「自分が元気だから、人に元気を与えられるんじゃないかな」

 「どういう人になりたい?」という質問をされて、僕が「お前に会うとなんか元気出るわって言われる人でありたい」といったところ、「僕もそういわれるんですよねー」と言っていたので、「なぜそう言われると思いますか?」と尋ねたときの答え。

 なんかシンプルだけど、芯喰った言葉だと感じた。

 

・凡事徹底

 当たり前のことをしっかり徹底的にやっていくこと。それが何よりも大切だということ。

 その人の座右の銘らしい。持ってるスーツ全部の裏に刺繍しているとのこと。

 

・すごく話を引き出して、巻き込む能力が高い人たちだと感じた。

 紹介してくれた先輩も、その話をしてくれた方も、どちらも話を引き出す能力、自分の話に巻き込む能力が高いということをすごく感じた。これが営業力の高い人たちなのかということを見せつけられたような気がした。自分も人の話を聞くということにはそこそこ自信があるというか、自分が大切にしていることなので自負はあったが、上には上がいるということを見せつけられてなんとなく僕は自信を失った感じがある。

 

・「人生でやりたいこと」は、すぐにハッキリしてくるものじゃない。

 話の最後に、僕が「まずは人生でやりたいことをハッキリさせてから、それを叶えることができるのはどういう仕事なのか考えていきたい」と話したときに言われたこと。

仕事を真剣にやっていくうちに、だんだんとやりたいことがハッキリしてくるとのこと。

だから今考えすぎて焦って「自分はこうしたい!」ということを見つける必要はなく、もっと手前にあるやりたいことを叶えるということを考えた方がいいよというアドバイスをいただいた。

「まずは目の前の、心身ともに元気になって就職して家族を安心せるとかそういうレベルのことから考えた方がいいかもしれないね」といわれ、ハッとさせられた。

 

 

僕の状況が状況だったため、普段のキャリアプログラムとは違う形で進行して、本当に雑談という感じで、話が行ったり来たりしたのでまとまりはないが、なんとなく心に残ったのはこういったことだった。

 

そのほかにも、その会社の仕事だったり、生命保険業界の話だったりも少し伺った。世の中には「年収2000万が当たり前、トップの営業マンは年収3億」という世界があることを身近で感じたのでそれも衝撃であった。

 

このキャリアプログラムを通じて、なんか考えすぎていたなというのが一つ感想としてある。

 

「人生の目的」が僕にとっては「周りの人を元気にして、ゆとりのある生活を与えたい」ということだ!とか色々考えていたけれど、もっとシンプルというか手前にやりたいことがあってそれを叶えるために仕事をするというのがまず最初のステップなんじゃないかなと思った。

 

少し肩の荷が下りたというか、行動する足取りが軽くなったような、そういう感覚を得られたので非常に有意義だった。

 

帰り際に先輩から、その会社の人たちの入社エピソードが書かれている本と、その会社の営業の考え方について書かれた本を貸してもらった。今それを読んでいるところだが、これについても別でまとめたいと思う。

 

 

一応このキャリアプログラムは3部構成で目的は社員のスカウトらしい。

次回営業とはどんな仕事かという話、最後は入社するにあたっての試験とか面接とかという話になってくるらしい。(だんだんどこの会社かわかってきてしまいそうだけれども)

 

話を聞くかぎり、正直できる人は爆裂に稼げる世界のようなので金という面では魅力的だが、自分には絶対向かない世界だと思うので最後の段階まではいくつもりはない。

でもその「絶対向かないと思う」という感覚が正しいかという答え合わせのためにも、次回のプログラムまでは話を聞いてみようと思っている。

 

今までみたいに流されて入社する方向で進まないように気を強く持とう。

すべて終わったことについて

 

11月30日に静岡の家の退去が完了して、離婚に係るすべてが終わりました。

 

 

すべて終わり、スッキリした解放感のある感覚があるものだと思っていましたが、とても言葉にできない感情に苛まれて、なかなか心の整理ができませんでした。

2日たって少し落ち着いてきたので言葉にしようと思う。

 

僕は今回離婚したことについて一切の後悔も未練もありません。

本当に良かったことだと思っている。

 

ただ、どうしてもいろいろな記憶―思い出というほど綺麗なものではないのであえて記憶という―が強く残ってしまっていて、それにこの3か月ずっと悩まされている。

 

どこに行くにも何をするにも、この結婚生活の3年間の記憶が、あの時こういわれたとかあの時どこどこへ出かけたとかが思い出されてしまい、なかなか振り切れずにいる。

 

特に静岡という場所は、住んでいた家の付近は特に負のオーラというか、怨念のようなものが残っていて、近づくだけで苦しい気持ちになってしまう。

 

退去の日、立会時間が午前中だったので朝早く新幹線に乗って向かった。乗った新幹線が新型のN700Sで、ずっと乗りたいと思っていたので乗れて少し気分はよくなったが、それでも道中は憂鬱な気分であった。

 

立ち合いが終わり、おそらく最後になるだろうと思ったので、静岡の駅周辺を歩いてみた。でもどこに行くにも記憶が呼び起されてしまい、苦しくなることばかり。

あんなに好きだと思っていた街だったのに、こんな感情になってしまうのが悔しくてしょうがない。でも耐えられない。そう思ったので予定より早く新幹線に乗り静岡から離れた。

 

正直、もうしばらくは静岡県に近づくことはできない、したくない。そう思ってしまう。

 

被害者面するつもりはないが、正直それだけの傷が心にできてしまっている。

 

実家に帰ってきて割とすぐに、中高の恩師に会った。その時お世話になっていた先生が「3年間受けた心の傷が完治するのには、3年かかるらしいから焦る必要はないよ」と言ってくださった。

 

ここ3か月でいろんな方と会い、だいぶ自分を取り戻して元気になったつもりでいたけれど、先生の言うことはその通りなんだなと実感している。

 

たぶんしばらくはこの記憶に悩まされることと付き合っていかなければならないのだろう。

そういう覚悟が必要なんだなと感じた。

 

だから、事実としては家の退去も終わり静岡に行くことも手続することもすべて終わったわけだけれども、僕の心の中ではなかなか『終わった』という実感が持てないでいる。スッキリしないような気持ちがあるんだなと気づけた。

 

この嫌な記憶はしばらくはなくなることはないと思うので、うまく折り合いがつけられるようになったときに本当に「すべて終わった」と思えるのだろうな。

 

帰ってきたあのタイミングで、先生からあの言葉を頂けたことはすごく自分にとって助かった。それ以外にもこの3か月でいろんな人に会いそれぞれの言葉にすごく励まされている。こんなに助けてくれる人が周りにいることが本当にありがたい。感謝してもしきれないほどです。ありがとうございます。

 

今回の出来事を通じて、やはり経験として何か自分の糧にしなきゃいけないと思うし、それをしっかり言語化して今後に活かしていかなければならないと思っている。

 

まだまだ反省すべき、活かすべき点はあるのだろうけど、現時点で自己分析する限り前と変わったなと思うことが2つある。

 

1つは、今までより人のために動くという気持ちを持てるようになったこと。

正直結婚する前から、というより社会人になってから離婚するまで、自分のことでいっぱいいっぱいになっていて自己中心的な考えで過ごしてしまっていた。人のことを考える余裕なんて正直なかった。

それが、結婚生活がうまくいかなかった理由の一つでもあると思う。

でも、今はまあ仕事もやめて時間が増えたからというのもあるかもしれないが、困っている身近なひとの助けになれることをしたいと本心で思えるようになった。それこそが自分の充実感につながるということに気づけた。そういう思いを持てるようになったということが、個人的には少し成長できたのかなと思っている。

 

もう一つは、ほかの人がなかなか経験できないだろうことを経験して、自分の中では人生最大の地獄を味わって、周りの人に助けられながらもなんとか乗り越えつつあって、これほどにしんどい思いをすることはないだろうということから、少しだけ今まで自分に自信を持てるようになってきた。

もともと僕は自分に自信がない人間だ。特にここ数年は否定されることが多くどんどん自信はなくなるし、それに伴って無駄なプライドが表れてしまって、余計こじらせてしまうという状況が続いていた。

今も自信があるというわけではないけれど、今までよりはどんなことがあっても乗り越えられるような気持ちを持てているし、失うものもないので怯えることもなくなってきているように感じている。

 

こういう気持ちを持てるようになったので、今回の離婚について僕は後悔も未練もない。

 

でもこれで今回の件に蓋をして見ないようにしてはいけないと思うので、向き合って折り合いをつけて生きていくしかないのだなとも思っている。

 

これからが人生。頑張っていこう。

 

 

そして、一応形としてはすべて終わったので、無職でぼーっと過ごしていることにそろそろ言い訳ができなくなってきてしまうわけです。

給付制限期間が来週で終わるのでウーバーイーツを自由にできるのも来週までなので、そろそろ本腰入れて仕事を探していかなければならないわけで。

こういう現実に目を向けることから逃げてしまうのが悪い癖なので、自分に喝いれて頑張ります。

 

やさしさについて

いろんな人に僕は「やさしい」といわれる。

 

最近その「やさしい」ということがよくわからなくなってきている。

 

一応辞書的な意味は以下のようだ。

 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。

 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好まし感じである。

 悪い影響与えない。刺激少ない。

 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。

 控え目振る舞いつつましやかである。

 殊勝である。けなげである。りっぱである。

 

 

姿・ようすはとても優美とは言い難い感じだ。ごつごつ系ずんぐりむっくりである。

思いやりがある これに関して、自分が思いやりがあるかどうかわからない。

 

ここ3年間で一番言われた否定の言葉に「思いやりがない」であった。

自分では相手のためを思ってやっているつもりだったのに、それが「自分のことしか考えていない、思いやりがない」といわれてしまうのだから、なにが思いやりなのかよくわからなくなってしまっている。

 

前にも少し書いたが、小学生時代の影響で僕は結構「人に嫌われないように」という思いで行動することが多い。

だから、基本的に人の希望には従うし、「こうしたい」と思うことはかなえようとすることを行動理念として持っていたように思う。周りがしたがらないような仕事、だれか犠牲になってやってくれと思う仕事はできるだけやるようにしてきた。人のこともあまり否定しないようにしてきた。

 

そんなことを続けてきた結果、周りの人から「やさしいね」といわれるようになってきた。

 

でもそれって本当に「やさしい」のだろうか。

根本的には僕は「嫌われたくない」という、非常に利己的な理由で動いているわけで、本当の意味で相手のことを思って行動しているわけではない。

本心では嫌だと思いながらもやっていたこともある。

それでも「やさしい」のだろうか。

 

「やさしい」と「都合がいい」は違う。全然違う。

周りの人にとってある意味「都合がいい」存在で、文句も言わずにやってくれるから、角が立たない言い方をして「やさしい」という表現をしているんじゃないか。

僕はそういう存在なんじゃないかと思う。

 

だから、あまり「やさしい」という言葉が自分を表す言葉として合っていないように感じる。

正確には「やさしい風」というような、そんな感じ。

 

ただ、本当のやさしさというのがどんなものなのかまだよくわかっていないけれど、最近はいろいろ経験して、「嫌われないように」と行動することだけが「やさしさ」ではないということは分かった。

 

「思いやり」も「やさしさ」の要素の一つだと思う。

自分の思う通りに行動してくれないから、あの人は「思いやりがない」というのはあまりにも安直だと思う。その人はその人なりに相手のことを考えて行動しているのかもしれない。それが結果相手の願った通りの行動じゃないとしても、その過程にある相手のことを考えて行動したこと自体が「思いやり」だと思っている。だって人がどう思うかなんてわからないし、この行動した結果相手がどう思うかなんてのは相手にしかわからないことだから。

 

ここ数年で、自分が人を思って行動したことが、その人にとっては望んでいた形ではなかったということを何度も経験してきた。そして「思いやりがない」と否定されたことも何度もあった。

 

だから僕は人がどういう行動によってどのような感情になるのか、どういう行動によって人は喜びを感じるのかということが知りたくて、心理学ということに興味を持った。

前に少し触れたが、心理学の勉強をしたいと思ったきっかけの一つである。

 

色々つらい思いもして、今までは自分のために「やさしい風」の態度で過ごしてきたけれど、最近は自分のことよりも、純粋に人に喜んでもらいたいという思いが強くなってきている。

 

いろんな人がいるということも知ったので、そういう人を否定しないように過ごしていきたいし、相手がどう思うかはわからないけど思いやりを持つことを忘れないようにしていきたい。心理学も勉強して、どんな時に人はどういう心理になりやすいかということも知っていきたいと思っている。

 

そういうことが名実ともにできるようになってから、本当に「やさしい」人になれるんじゃないかなと思っている。

 

まだまだ答えが出ないことではあるんだけれど、本当にやさしい人に近づきたいなと思ってこれからも試行錯誤して暮らしていたいと思う。

 

余談だが、先日友人がラインの返信を3、4日返してこなくて予定が立てられなかったとき、「すぐに返信しないとか相手の都合とか全然考えてないし失礼じゃないか!理解できない!」と憤慨してしまった。

もしかしたらその人は優先順位として大事なことや急ぎのことがあったのかもしれないし、体調が悪かったかもしれないし、仕事がめちゃめちゃ忙しくてそれどころじゃなかったのかもしれない。僕は無職だから暇だけど他の人は普通に働いているからいつでも対応できるわけじゃないのに自分の都合に相手を当てはめて憤慨してしまったわけだ。反省。まだまだやさしい人には程遠いです。

 

やさしい男になる道のりはなかなか険しい。

お金について

 

お恥ずかしながら、僕はお金の管理が苦手である。

 

衝動買いをしてしまったり、節約が苦手で払わなくていい金を無駄に払ったり、一時期はパチンコにのめりこんで負けこんだり、後先考えずにお金を使ってしまう傾向がある。

 

大学時代は金の使いすぎで友達に借金していたり、社会人になってからはより使えるお金が増えて調子に乗り、これまた借金をしてしまった。

それが結婚生活がうまくいかない原因の一つでもあった。

 

そんなこんなで僕の人生は基本的に「お金がない」という状況が結構ずっと続いている。

現に今も仕事をしていなく、結婚していた時の貯蓄も全部持っていかれたので小遣い稼ぎのウーバーイーツと両親からいただいているお小遣いでなんとか日々暮らしているという感じだ。

 

今は今までの反省で借金はもちろん、ギャンブル関係に手を出そうという気持ちはなくなったけれど、無駄遣い癖が治ったかというと微妙。

 

すごく当たり前のことかもしれないが、「お金がある・ない」は精神状態に大きく影響するということに、今までの経験でようやく気付いた。

 

少しでも貯蓄があったり収入があれば、なんとなく心は安定する。

お金がないと、それだけでかなりメンタル的に追い込まれる。余裕がなくなる。

そのせいで今まで結構痛い目を見てきたし、しんどい思いをしてきた。

 

健康的に、元気に趣味や自分の好きなことに時間とお金を使って充実感のある生活を送りたいという思いがあるのだが、そのためにはやはりある程度お金の余裕がなければいけないなということに、ようやく気付きました。

とはいえあまり無駄遣い癖は治っていないのだが。

 

仕事探しをする上で、あまり給与にこだわりを持たないつもりでいた。

それよりも仕事の内容とか、やりがいとか、成し遂げたいこととか、やりたいこと、自分の充実感が持てる仕事ということに重きを置いて考えていた。

給与は、今までの仕事と同じ程度か、最悪やりたいことであれば下がってもいいと思っていた。

 

しかし収入がない生活を3か月も続けていると、やはり収入は大事だし、将来的に再婚したりした時に全然収入がないんじゃ困ってしまう。今までの二の舞になってしまうとも思えてきた。そうなるとある程度給与水準で、将来的にも収入が伸びる可能性のある仕事がいいのではないかとか、色々考えてしまう。

 

こうやって考えすぎていくから、なかなか仕事探しが前に進められないのだなとも思うのだが。

 

また、今はお金がないからできることが限られているけど、もし再就職してお金を手に入れたら、また自制が効かなくなってしまいそうで怖い。

まあ無駄遣いしてもいいぐらいに金を稼げばいいのかもしれないが。

 

とりあえず、給与水準が今までより下がらない程度で働けるところが見つかるといいな。

先のことはわからないし。

 

将来もしまた再婚できたら、絶対にお小遣い制にしてもらおうと思う。金の切れ目は縁の切れ目。金で家庭が崩壊してしまうのは最悪なので。

金でこれ以上苦労したくないです。

これまでの経験で、とりあえず「金の管理が苦手」という自分の欠点を自覚できて、それに対して対応しようという気持ちを持てていることはとりあえずいいことだったかな。

 

オカネ、ダイジ。

肝に銘じます。

パンクロック・メロコアバンドについて

よく聞く音楽はパンクロックというか、メロコアと呼ばれるジャンルだ。

 

ロックバンドが好きになった最初のころから好きなのが青春パンクと呼ばれてるジャンルで、ガガガSPGOING STEADY、銀杏ボーイズ、セックスマシーンなどを中心に聴いていた。

 

そこから派生してパンク系の曲を聴き始め、衝撃を受けたのはベタだがHi-STANDARDだった。

 

メロコアは「メロディック・ハードコア」の略らしい。ハイスタボーカルの難波さんはメロコアって言葉が好きではないようで、「メロディックパンク」と

わかりやすいメロディラインと、ズタッズタッという早いツービートが特徴といえば伝わるだろうか。わからなければとりあえずHi-STANDARDの「STAY GOLD」を聴けば大体わかる。ド定番のキラーチューンなので知らなきゃまず聞いた方がいい。結構いろんなところで聞いたがあると思う。

 

 

一番上の兄が10個上なのだが、ハイスタ直撃世代ということもあって兄の部屋にメロコアバンドのCDが大量にあったので片っ端から色々聞いた。日本のだけじゃなく海外のも。

Hawaiian6とかGREENDAYとか、NOFXとかその他もろもろ。

 

その後も大学時代に色々教えてもらったり、元妻もメロコア好きだったので色々教えてもらったり、フェスやライブの対バンなどで今まで聴いたことないバンドを聴いて最近どんどん好きなバンドの幅が広がっている。

 

前の会社で10個上ぐらいの上司らとカラオケ行ったときにハイスタを歌ったらめちゃウケが良かった。30代後半~40代が相手ならなかなか使える武器である。

 

今は以下のような日本のバンドを中心によく聞くが、まだまだ気になってたりするバンドはたくさんある。割とまだメジャーどころばかりだ。

dustbox

SiM

HEY-SMITH

BRAHMAN

Northern19

TOTALFAT

Ken Yokoyama

NAMBA69

DizzySunfist

 

 

メロコアが何でこんなに好きになったのだろうか。

 

まず、わかりやすいメロディラインというのがあるかもしれない。

ツービートを基本としたズタッズタッってテンポが、テンションが単純に上がるので良い。

 

あとは歌詞も個人的には好き。

基本英語詞なのだが、お世辞にも発音が良いわけでもなく、彼らが歌がめちゃめちゃうまいというわけでもない。

内容もそれほど難しいことを言っているわけではないので僕みたいなジャパニーズのバカでも簡単に理解できる。

 

その歌詞の内容がとてもストレートで、自分自身に素直に、自分らしくあることを肯定してくれるような内容であることが多い。

大衆に対するアンチテーゼ的な、個人の自由・反体制ということを根幹としているのがパンクロックともいわれているので、そういった面に非常に共感するから惹かれるのかもしれない。

 

 

ちょっと話はズレるが、僕は結構ネクラだ。小学校の時はそれが原因で軽いイジメも受けていた。

自分らしくいようとすると、嫌われるということを小学校時代に学んだのでそれからはできるだけ明るくふるまうように過ごしていた。続けているうちにそれがそのまま自分の性格っぽくなってきたのだが。中学高校では意外と周りのみんなも同じようなタイプが多かったこともあったり、なんでも受け入れてくれる友達が多かったので割とのびのび過ごすことができた。

大学は最初の方こそ明るくふるまうことを頑張りすぎてしまったが、やはり同じようなタイプが多かったので、そこでものびのび過ごせた。この時にメロコア・パンクロックに出会えたことが非常に大きかったと思う。

社会人になってからその分だいぶ苦労することになった。取り繕って暮らしていくのがしんどくて、いろんなメンタル的な危機があった。

最終的には崩壊してしまったのだけど、社会人になってから、メロコア・パンクロックをよく聞くようになった。しんどい時、自分らしくいられないときに、自分らしく生きることを肯定してくれるような曲ばかりだった。鬱陶しい奴には中指を立てるような曲がとても救いになった。

 

パンクとかロックはネクラのためにあるようなものだと僕は思っている。

パンク系のバンドのライブに行くと少し怖い感じの人も多いが、結構闇を抱えていそうなタイプの人も多かったりする。そういう人が一人できて、ライブで大はしゃぎして、部活帰りのような得体のしれない充実感のある気分で帰路に就く。

輝かしいものに対する憧れやほぼ嫉妬に近い羨望の気持ち、自分には何もないと卑屈になってしまう気持ち、“みんな”の中に入れない自分のふがいなさや情けなさ。

そういったものをパンクが、ロックが昇華してくれる。

 

だから僕はメロコアバンドが、パンクロックが、ロックバンドが好きだ。

これからもライフワークとしてこの辺は一生聴き続けるのでしょうな。

 

 

全然関係ないのだが、パンクロックのカルチャーとしてタトゥーを入れるというのは普通のことらしい。

個人的にあんまり目立たないところに小さく自分の信念を示すような、縁起のいいタトゥーを入れたいなとちょっと思っているが、そうすると大好きなスーパー銭湯に行けなくなってしまうので、それだけの理由で思いとどまっている。

 

いつか偏見なくなって普通に入れられるといいな。